この記事を書いたのは…
ライター
横川 良明(よこがわ・よしあき)さん
1983年生まれ。大阪府出身。テレビドラマから映画、演劇までエンタメに関するインタビュー、コラムを幅広く手がける。著書に『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』(サンマーク出版)、『役者たちの現在地』(KADOKAWA)がある。
Twitter:@fudge_2002
逃れられない「推しを消費する」後ろめたさ
オタクたちを悩ませる「推しを消費したくない」という罪悪感。前回の記事(「推しのことを消費している?」推し活のプロが罪悪感を覚えた瞬間5選)では、僕がどんなときに消費の罪を感じるかを紹介しましたが、実際のところ、こうした後ろめたさとどう向き合っていけばいいのでしょうか。いちオタクとして、僕自身の考えをちょっと真面目にお話ししてみます。
大前提として、推しを持った以上、「消費している」という後ろめたさからは逃れられないというのが僕の持論です。テレビの前でキャッキャと楽しむ程度なら、ほとんど消費的な要素はないかもしれません。が、「推す」とはあくまで主体性を伴う行動が含まれるもの。ただ受動的に供給を受けるだけでなく、グッズを買ったり、現場に通ったり、周囲に布教をしたり、自ら何かしらアクションを起こすからには、多かれ少なかれ消費が含まれます。そして、そこには何らかの加害性もあるでしょう。それ自体を否定はできません。
だから、まずやるべきは己が欲望の塊であることを認めること。欲深くなければオタクなどやっていられません。時に、自分が厄介オタクでないことの宣誓として「推しを消費したくない」と掲げるケースも見られますが、オタクという大きな主語の前では同じ穴のムジナ。その表明が己の潔白の証明にはならないし、欲望のセーフティロックにもならないことは重々承知しておいた方がいいでしょう。推しを持った以上、みんなそれぞれの欲望があり、それぞれの厄介さがある。その事実から目をそらさないことが大事だと僕は考えます。
次に、はたして推しは本当にそんなにか弱い存在なのか、今一度考えてみましょう。「推しを消費したくない」というフレーズは一見正義に聞こえますが、裏を返すと勝手に推しを消費される可哀想な弱者としてレッテル貼りしていることになります。
推しだって、そんなに無力でも愚かでもありません。芸の道で生きていくと決めたからには、相応の覚悟があるでしょうし、自分自身が「商品」であることくらい、一般人の僕たちが案ずるよりも冷静に理解しています。その上で、推したちは自分の目指す道に向けて今できる最高のパフォーマンスをしている。そこに変な遠慮を混ぜ込むことは、逆に推しの営業妨害にもなりかねません。
わかりやすく言うと、肌の露出がそう。推しとて人に見せるために節制をし、トレーニングに励み、体を仕上げてきているわけです。キャッキャと言ってもらうために脱いだのに、謎のポリコレ精神で自制したら、脱いだ推しの立場がない。この隆起した上腕二頭筋を、引き締まった腹筋をどうしたらいいのという話です。そこはもう大人しくキャッキャと騒げばいい。
さすがに未成年が意味もなく脱がされていたら「事務所〜〜〜!」と投書をしたいところですが、成人であり、本人が納得しているなら、その仕事に対して不必要に過保護になることはありません。パン屋さんがせっかくおいしいパンをつくったのに、消費することそのものを悪と言って買うのをやめたらパン屋さんの立つ瀬がないですし、いずれそのパン屋さんは潰れます。僕たちにできることは、正当な対価を払った上で、おいしくパンをいただくことです。
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それでもタブー行為はある
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